幕末・明治の写真と絵葉書 イマジンネット画廊ブログ

古写真と絵葉書を通して、古き良き日本の生活を紹介していきます。

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乳母車と人力車の歴史

01-8004-578岡戸絵葉書(111101_037)本明治後期NG

籐かごで出来た、やさしい雰囲気の乳母車。

福沢諭吉は慶応3年にアメリカに渡航した際に、自分の子供のために乳母車を購入し、それを見た和泉要助ら発明家がその形状から着想を得て人力車を造ったそうです。

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生麦事件

01-1451-233周辺神奈川生麦(0116A459)のコピー

東海道神奈川宿生麦村。生麦事件の現場周辺として有名な写真ですが、
一枚の写真としてみると画の中心に据えられた大木のおもしろさに目を惹かれます。

※生麦事件:1862年、薩摩藩の島津久光の行列の中を通過しようとしたイギリス人が、薩摩藩士に殺傷された事件。

大日本帝国海軍占領時代のサイパンの絵葉書

大日本帝国海軍占領時代のサイパンの絵葉書

”今月の一枚は大日本帝国海軍占領時代のサイパンの絵葉書である。
看板に大日本帝国マリアナ群島占領地軍政庁の手書き文字が読み取れる。第一次世界大戦での占領後それほど経っていない、大正初期当初の様子が切り取られたものと思われる。武装した兵士と備えられた機関銃が見える。 "

(今月の一枚より)

日本によって加刷されたドイツ発行マーシャル諸島の切手

month_38a(150426-015.jpg

"ドイツ植民地では植民地専用の切手が発行されていた。今月の一枚はドイツが占有していた南洋マリアナ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島のうちマーシャル諸島のカイザーヨット統一図案切手9枚である。各々に田村、小林、加納の印鑑が押印されている。戦時下では占有した地域で使われていた切手に自軍の印を重ねて刷りそのまま使用することがあり、これも1914年日本占領時に加刷されたと思われる貴重な物である。鮮明な印章が写真2、写真3は第一次世界大戦時の加藤友三郎司令官率いる日本海軍マーシャル諸島占領の記事である。
1997年、米国の郵趣展示会においてH.Kaiser氏により"Marshall Islands Japanese Occupation 1914 ( New Light on the "Chops" from Old Documents) が発表され、同様の切手と共に出品されて同氏が金賞の栄誉を賜ったと伝えられる(写真4~7がそのコピー)。更なる発見や研究が待たれる。(TK) "
(今月の一枚)より

ドイツ領時代のサイパンの絵葉書

month_37(150426-001).jpg
(日本軍によって略奪され、使用されたもの)

"第二南遣支隊所属の鹿児島丸はパラオ地区担当の第六特別陸戦隊を乗せ、1914年10月末に佐世保を出航、11月6日朝コロールに主隊を揚陸、11月17日アンガウルに分隊を揚陸、11月19日にはヤップに揚陸させた。11月21日鹿児島丸は長崎に向け帰国の途についた。鹿児島丸のこの航海には、なぜか艦船郵便所は設置されなかった。この航海前の10月1日に、鹿児島丸に第一艦船郵便所が設置されたが、それは山東半島向け航海であったと思われる。
鹿児島丸の一回目南洋群島への航海が終了後、1914年12月10日、2回目の南洋群島への航海であった鹿児島丸に第二艦船郵便所が設置され、佐世保を出航した。

表面の絵葉書は独逸製のものであり、ドイツ占領時、ドイツ人によって持ち込まれ、通有していたものである。きっとそれは日本軍により接収か略奪されたものであろう。日付印のA欄は<第二艦船>、4年4月16日の消印である。C欄は<郵便所>となっている。<第二艦船>とは、この鹿児島丸のことである。鹿児島丸は前述の通り1914年(3年)12月10日、佐世保を出航。その後12月17日パラオに入港、4年の元旦をトラック島で迎えた。記録によると、この鹿児島丸は4年5月6日にまだサイパン島に停泊していたから、前記のレポート中の記述にある日本軍占領時に拘束されたドイツ人の郵便吏、 J.Krumlingが述べた「1915年(4年)6月9日鹿児島丸で横浜に向かった」というのは、彼がこの船に乗っていたことになる。(TK)"

(イマジンネット画廊 今月の一枚)より

工部省測量司とお雇い外国人

コーリン・マクヴィーンと工部省測量司一同

明治4(1871)年、日本のインフラ整備を進める工部省に測量司設置。
日本灯台の父とされるリチャード・ヘンリー・ブラントンの助手として来日したコーリン・アレクサンダー・マクビーン(Colin Alexander McVean/スコットランド出身)測量師長指導の元、日本で最初の三角測量が行われました。
写真にはマクビーンをはじめとするお雇い英国人測量師たちと日本技術者ら、測量司のメンバーが写っています。

測量助師を務めていたジョイネル(Henry Batson Joyner)が気象観測の必要性を訴えたことで、日本に気象台の設置が決まりました。
気象機械調達を依頼されたシャーボー(H.Scharbau)は、地震の多い日本で観測をするにはまず地震観測が必要だと考え、色々な気象器械と共にイタリアの地震計も持参しました。
当初ジョイネル一人で行っていた気象観測はその後日本人伝習生に引き継がれ、明治17年6月1日、日本初の天気予報が発表され、以後同日は気象記念日と制定されています。

東京、横浜の水道

東京龍口
(写真の詳細)
"先月に引き続いて水道に関してである。

東京の上水道

歌川広重浮世絵

装甲巡洋艦・吾妻

装甲巡洋艦吾妻
(写真の詳細)


明治28年(1895年)の三国干渉の結果、遼東半島を占有したロシアは旅順を拠点に太平洋艦隊を拡充させていきました。
その脅威に対抗するため大日本帝国海軍が掲げたのが、戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を中核とした大艦隊建艦計画、六六艦隊計画でした。
吾妻はその第一期拡張計画で八雲型に次いで整備された装甲巡洋艦です。
それまでは艦船の主な発注先はイギリスでしたが、ロシアとの対立が深まる中、三国の内残り二国との関係への配慮から、吾妻はフランス、八雲はドイツから購入しています。

船一隻からも国々のパワーバランスが窺えて興味深いですね。



浅田信興近衛師団長、銀座三越呉服店前

戦時の三越
(写真の詳細)

本日ご紹介する絵葉書は日露戦争、浅田師団長率いる近衛師団の凱旋の模様です。
通り沿いに観衆の差す傘が連なる様が面白い一枚です。

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