幕末・明治の写真と絵葉書 イマジンネット画廊ブログ

古写真と絵葉書を通して、古き良き日本の生活を紹介していきます。

特集:遊郭

花魁道中
イマジンネット画廊にて、江戸と横浜の遊郭について特集しています。
遊女や出入りする男たち、遊郭に息づく人々の様子をご覧下さい。

[特集:遊郭]
遊郭特集

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横浜岩亀楼/港崎遊郭

横浜岩亀楼/港崎遊郭

"テリーベネット氏の著書Collectors’ Data Guideによると、ネグレティザンブラ社が1861年に発売したステレオ写真の中に横浜岩亀楼 No1 、No2と記載されたものがある。各々に付された番号は1729 と 1730であり、今回取り上げた写真と番号違いであるが、同シリーズのものであると思っている。1729番以前のもの、1756番以降の調査が望まれる。
横浜岩亀楼は横浜居留地につくられた遊郭であるが、時を待たずして焼失してしまう幻の遊郭、港崎遊郭の中にあった。岩亀楼は当時としては走りの同内唯一の本格的遊郭であった。残された資料も少なく、写真の存在はあまり知られていない。貴重な写真だと言ってよい。(T)"
(今月の一枚)

江戸・東京にあった遊郭2 根津遊郭/洲崎遊郭

八幡楼
(写真の詳細)

”9月の今月の一枚は前月に続いて遊郭の話である。
江戸のはじめ、根津は近辺の中仙道筋の湯島・本郷がいち早く町場化したとあるが、地域一帯は大部分が農村であった。
湯島は麹の産地として著名、味噌問屋が多く、本郷は肴屋と竹・丸太屋が多くあったとある。
明暦の大火は1657年(明暦3)にこの地の寺から出火して江戸の町を焼き尽くした。
折りしも、江戸の都市構造の変化が求められていた時代であった。
大火後、幕府は防火対策として江戸城近辺にあった大名屋敷・旗本屋敷や寺社を周辺地域の標高20~30mの平坦な台地上に移転させた。
根津はその一環として、1706年(宝永3)根津権現社が千駄木から移ってきて町立てされた地区であったが、以来根津権現社の門前町として賑わい、煮売り料理茶屋が置かれて、1708年(宝永5)には既に伊勢屋・大黒屋など多数の遊女屋があったとある。

江戸・東京にあった遊郭1 新吉原遊郭

新吉原
明治初期の新吉原、仲之町

"いやはや何とも、凄い!下に纏わることがこれほど根強いものかと改めて知らされる。

知っていましたか、【吉原】が江戸・明治、大正・昭和に亘って江戸幕府の鎖国よりも長い340年間も続いたことを! それはネット上のウィキペディアの解説を読み終えた後の感想であるが、それにしても、そこで繰り広げられていたであろうどろどろした人間模様を描写した話や悲哀に満ちた逸話は星の数ほどあったに違いないと想像する。史実をひと通り知るには同解説に目をとおすのが手っ取り早い。

吉原遊郭は幕府が家康亡き後、1617年家康の隠居地駿府から日本橋葦屋町(現在の日本橋人形町)に城下にあった公娼七か丁の内、五か丁を移したものとあり、【吉原】の名の由来は海岸に近い葦の茂る僻地、葦原を悪しに通じるのを忌んで吉原としたとある。そう言えば、千疋屋の店が親父橋のたもとにあって遊女に土産を買っていく客で賑わっていたと言う話を聞いたことがある。1656年(明暦2年)幕府は江戸市中拡大のなか、大名の武家屋敷が吉原に隣接することを憂慮して、吉原側に浅草寺裏の日本堤への移転を命じた。これが新吉原の誕生劇であるが、その歴史を語るには度重なる火事の話をおいては出来ない。ついでながら横浜の遊郭もしかり、幕末の港崎遊郭をはじめ、横浜にあった遊郭の話をすることは火事による被災と移転の歴史を語ることに等しい。

新吉原・花魁道中

花魁道中
(写真の詳細)

本日ご紹介するのは明治浅草・新吉原の花魁道中の絵葉書です。
禿を従え艶やかな着物を纏った花魁を、道に集まった大勢の男たちが眺めています。
群集の熱気と花魁の涼しい横顔が対照的な一枚です。

新吉原格子窓

本日ご紹介する絵葉書は明治後期発行と思われる東京名所、新吉原のものです。
吉原遊女
詳しくは<こちら>

遊郭の格子窓の向こうに座した、橙と濃紺で鮮やかに彩色された打掛の美しい遊女たち。
室内の壁面も何やら派手な装飾がされています。
奥にいるのは女将でしょうか、下働きの女性でしょうか。
目線・表情もそれぞれ、想像が掻き立てられる一枚です。

吉原、遊女の写真

現代で言葉を使うことは殆どありませんが、時代劇ではお馴染みの吉原。
本日はそんな夜の徒花、遊女たちの写真をご紹介致します。
01-1313-005.jpg
吉原の遊女(写真の詳細)