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明治時代、永代橋の絵葉書。一見、水彩画のように見えないでしょうか?
当時の絵葉書には、写真を白黒印刷した後に手作業で色付けをしたものが多くありました。同じ写真を元にしていても彩色次第で印象が変わってきます。
こちらの絵葉書は抑えられた色身と余白を活かした構図が素敵な一枚です。書き込みがないものも見てみたいですね。
"羽田空港に今も残る鳥居。
江戸時代に起源を持ち明治に再建された穴守稲荷神社のものである。撤去しようとすると事故が起こるなど、いわくつきの鳥居として有名らしい。"
(今月の一枚)より
明治初期、内田九一撮影。
江戸時代、呉服店に併設された両替店から幕府の大阪御金蔵銀御為替御用を経て維新政府の御為替方となった三井組は、明治5年(1872)6月、日本初の銀行建築を兜町の海運橋際に三井組ハウスを建造する。
総工費47,601両、五階建てで展望台の付いた建築はまるで城のようである。
設計は清水建設二代目清水喜助。先進的な和洋折衷設計の粋を極めたこの建築は、
新聞も大々的に取り上げ、一般市民の関心も高く東京名所として人気を博した。
現代でも多くの絵葉書や錦絵の残る名建築である。
(今月の一枚)
10月14日は鉄道の日ということで、初代新橋駅の写真をご紹介します。
明治5年の10月14日、日本初の鉄道として正式開業した新橋駅は、東京駅が開業するまでの間、東京の重要な起点駅でした。
設計はアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス
(写真の詳細)
渋谷では古くから水車業が盛んな地域、明治時代の最盛期には50もの水車が稼動していたと言いますが、大正時代までに姿を消しました。文部省唱歌の春の小川は渋谷の小川から作られたそうです。
"常盤橋御門前の写真である。
常盤橋の親柱には当然のごとく擬宝珠(ぎぼうし)が覗える。
同御門は1872年(明治5年)に撤去されたとあるので、写真はそれ以前に撮影されたことになる。そこには高札場が右手にあるが、人力車の溜まり場になっていたように見受けられる。
左手奥に呉服橋が見える。 (T)"
(今月の一枚)より
三橋/右奥に馬車鉄道
"上野駅の写真は多々あるが、今月は中でも珍しい駅周辺の画像を集めた。
東京馬車鉄道が上野に開通したのは明治15年~明治16年のことで、鉄道の損壊や糞尿の問題などで路面電車に移行するまで20年間営業が続いた。乗り降りの場所は自由で、乗りたいときは手を上げれば良かった。現代のバスとタクシーのような感覚だろうか。
山下にあった「雁鍋」は幕末より名のしれた料理屋で、夏目漱石、森鴎外、正岡子規らも通っていたといい、作品内にもしばしば名前が登場し、大正はじめに発行された「下谷繁盛記」も雁鍋について触れている。上野・文京周辺には明治の文豪が多く集まっていた。 "
(今月の一枚)
(写真の詳細)
本日ご紹介するのは前回に引き続き東京の川の絵葉書です。
寛文2年(1662年)、現在の吾妻橋から向島に通じる源森川(現在の北十間川)に架けられた源森橋。
いつしか枕橋と呼ばれるようになったその橋が、昭和3年に架け替えられたのが、現在も残る枕橋です。
東京スカイツリーの傍なので、散策ついでに景色を見比べてみるのも楽しいかもしれません。
(写真の詳細)
明治に区画された浅草六区は演劇場、オペラ常設館などで賑わう歓楽街として隆盛を誇りました。
左手前の活動写真館(映画館)大勝館には「新更屋敷」「難破船救助の実」が、その他「オペラ」「宮本武勇伝」などの宣伝旗がひしめく通り。
そこを闊歩する人々はどれを見ようか目移りでもするように左右の建物を見上げています。
人々の出で立ちも歓楽街だけあってどことなくお洒落に見えますね。
大変活気ある一枚です。
(写真の詳細)
本日ご紹介する絵葉書は、浅草新吉原の大門です。
1656年日本橋から浅草に移転した吉原は新吉原と呼ばれ、
明治の後期には元はなかったアーチが付け加えられました。
アーチには桜の花の電球装飾が取り付けられ、
中央には弁天か乙姫のような像が立っています。
背後に見える桜と相まって、とても華やかですね。