幕末・明治の写真と絵葉書 イマジンネット画廊ブログ

古写真と絵葉書を通して、古き良き日本の生活を紹介していきます。

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明治 水菓子屋

01-8001-003水菓子屋
(写真の詳細)
水菓子屋の店頭です。瑞々しい果物が店頭に並べられ、涼しげな雰囲気ですね。

水菓子というと、現在では羊羹など和菓子のことも指しますが、本来は果物を指す言葉でした。
江戸、明治頃の水菓子の定番は、西瓜、桃、梨、ぶどう、みかん、栗あたりだったようです。
画面中央には西瓜がありますが、つるっとした無地の皮。種もずいぶん大きいですね。
縞々の品種が定番になったのは昭和に入ってからだそうです。
長い時間をかけ、食べやすく美味しく改良されていく果物たちですが、これはこれで素朴で美味しそうです。

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江戸・東京にあった遊郭1 新吉原遊郭

新吉原
明治初期の新吉原、仲之町

"いやはや何とも、凄い!下に纏わることがこれほど根強いものかと改めて知らされる。

知っていましたか、【吉原】が江戸・明治、大正・昭和に亘って江戸幕府の鎖国よりも長い340年間も続いたことを! それはネット上のウィキペディアの解説を読み終えた後の感想であるが、それにしても、そこで繰り広げられていたであろうどろどろした人間模様を描写した話や悲哀に満ちた逸話は星の数ほどあったに違いないと想像する。史実をひと通り知るには同解説に目をとおすのが手っ取り早い。

吉原遊郭は幕府が家康亡き後、1617年家康の隠居地駿府から日本橋葦屋町(現在の日本橋人形町)に城下にあった公娼七か丁の内、五か丁を移したものとあり、【吉原】の名の由来は海岸に近い葦の茂る僻地、葦原を悪しに通じるのを忌んで吉原としたとある。そう言えば、千疋屋の店が親父橋のたもとにあって遊女に土産を買っていく客で賑わっていたと言う話を聞いたことがある。1656年(明暦2年)幕府は江戸市中拡大のなか、大名の武家屋敷が吉原に隣接することを憂慮して、吉原側に浅草寺裏の日本堤への移転を命じた。これが新吉原の誕生劇であるが、その歴史を語るには度重なる火事の話をおいては出来ない。ついでながら横浜の遊郭もしかり、幕末の港崎遊郭をはじめ、横浜にあった遊郭の話をすることは火事による被災と移転の歴史を語ることに等しい。

装甲巡洋艦・吾妻

装甲巡洋艦吾妻
(写真の詳細)


明治28年(1895年)の三国干渉の結果、遼東半島を占有したロシアは旅順を拠点に太平洋艦隊を拡充させていきました。
その脅威に対抗するため大日本帝国海軍が掲げたのが、戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を中核とした大艦隊建艦計画、六六艦隊計画でした。
吾妻はその第一期拡張計画で八雲型に次いで整備された装甲巡洋艦です。
それまでは艦船の主な発注先はイギリスでしたが、ロシアとの対立が深まる中、三国の内残り二国との関係への配慮から、吾妻はフランス、八雲はドイツから購入しています。

船一隻からも国々のパワーバランスが窺えて興味深いですね。



大磯 海水浴場

大磯
(写真の詳細)

海水浴場発祥の地、大磯。
元軍医総監松本良順がすすめた医療行為としての海水浴が始まりですが、徐々に娯楽として定着していきました。
今も昔も多くの人で賑わう風景は変わりませんね。

明治中後期の鉄道郵便車

郵便
"今月の一枚は明治中後期の鉄道郵便車の逆版刷りされた絵葉書である。停車中の駅はおそらく新橋―横浜間のものと思われるが、当時の職員の服装や客車の様子が垣間見えて中々興味深い。同時代の郵便の配達模様を写した普及版の絵葉書を下段に載せたので見比べて欲しい。共通点が見つかる。同時代の参考品として併せて朝鮮国の郵便局と配達員の絵葉書と日露戦争時に号外を配った男の絵葉書を載せた。いでたちが印象的である。

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