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幕末・明治の写真と絵葉書 イマジンネット画廊ブログ

古写真と絵葉書を通して、古き良き日本の生活を紹介していきます。

幕末の戦艦・開陽丸

開陽丸写真

"今月の一枚はオランダで撮影された軍艦開陽丸の写真である。


黒船来航を受けて以後外国の中古軍艦の買い入れを始め海軍力強化に当たった江戸幕府ではあったが、まだまだ外国の強力な軍艦には遠く及ばない軍備であり、諸外国の脅威に対抗しうる最新の性能を有する主力艦が必要であった。

南北戦争を理由にアメリカへの発注を断られた幕府は1862年(文久2年)、当時最新鋭の性能を有する軍艦の新造をオランダに発注する。当時の価格にしておよそ40万ドルという巨費が投じられ、軍艦の発注と同時に操船技術等を学ぶ留学生が派遣された。開陽丸(夜明け前の意)と名づけられた3000トン級軍艦は1866年(慶応2年)に完成し、留学生たちと共に日本への処女航海に出で、1867年3月26日、無事横浜に入港、引き渡された。

帰国後すぐ軍艦奉行勝海舟や留学生の一人、幕府海軍軍艦頭並に任ぜられた榎本武揚などの元、乗組員養成が行われることになる。1865年第二次長州征討で敗戦を喫していた幕府にとって、諸藩を圧倒的に凌ぐことになる開陽丸の戦力がいかに頼もしかったことかは想像に難くない。

しかし開陽丸入港から僅か半年、大政奉還から二ヵ月後、王政復古の王政復古の大号令が布告され、時代は幕府廃絶へと向かうことになる。12月9日のことである。



大政奉還の際には江戸湾に在った開陽丸は同月末、江戸脱出を図る薩摩藩船翔鳳丸を追跡砲撃する。初戦は逃れられる結果になり、これを追ってそのまま大阪を警備。明けて1868年(慶応4年)の1月2日、兵庫港より出港した薩摩藩船平運丸への停船命令が聞き入れられなかったことから砲撃し、それを発端に戊辰戦争開戦へと到る。

1月4日、鳥羽・伏見の戦いを見守っていた榎本率いる開陽丸は兵庫港より出港する薩摩藩船3隻を再び発見、これを砲撃するもさほどの損害は与えられなかったが、逃げ延びた薩摩藩船春日丸は座礁・自焼するなど、この阿波沖の海戦は旧幕府軍の勝利であった。

その一方鳥羽・伏見の戦いに敗れたことを知った榎本が幕府陸軍と連絡を取る為下船している間に、大阪城を脱した将軍徳川慶喜が入れ違いで開陽丸に乗船、江戸に帰還してしまった。置き去りにされた榎本は大阪城の後始末をして帰還する。結局阿波沖の制海権は新政府軍のものとなった。



4月11日江戸城の無血開城が成されると新政府は幕府海軍艦隊の引渡しを要求した。榎本は開陽など主力艦を引き渡すことを拒否。この時引き渡したのは4隻のみであった。この抵抗が可能だったのは旧幕府の海軍力が未だ脅威であり新政府が慎重にならざるを得なかったからである。そして再び引渡しを要求された榎本は抗戦派の旧幕臣と共に陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率い8月19日江戸を脱出、仙台に寄港し蝦夷地へ向かう。

暴風による艦隊の離散、拿捕、土方歳三などの旧幕府脱走兵との合流などを経て旧幕府軍が占領していた函館五稜郭に入港。11月14日江差沖に到着するも敵の松前兵は既に撤退しており、榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残し上陸、江差を無血占領する。

ところでどこの地方にもその土地特有の気候というものがある。江差にはタバ風と呼ばれる厳しい北国の冬の強風があって、榎本は無血占領の安心からかまた別の理由からか、海域の調査を忘れていたと考えられる。15日夜、天候が急変し海洋丸は座礁。江差沖の海底は固い岩盤で錨が引っ掛かりくかった。救出に向かった神速丸は座礁・沈没し、数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没した。

こうして開陽丸は、艦そのものの威容に対してあまりにもあっけない最期を遂げたのだった。主力戦艦であった開陽丸の喪失は旧幕府軍海上戦力優越を喪失させ、その後の箱館戦争に影響を及ぼした。江差には今でも、沈みゆく開陽丸を見守りながら榎本と土方が幹を叩いて嘆いた…という逸話の「嘆きの松」が残っている。



尚、その後幾度となく引き揚げ作業が行われ、現在は大砲や日本刀などの引き上げ品と共に、オランダに保管されていた設計図に従い復元され開陽丸が「開陽丸青少年センター」に展示されている。"

(今月の一枚)
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